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浜崎祇園年代記 
    
慶長年間 土地の儒学者、落合某が京都の祇園祭を見て浜崎で祇園祭を始めさせたという説がある。 

1753年
(宝暦3年)
 

浜崎祇園祭を始めたと伝えられる年
中村屋久兵衛が商用で京都に上ったとき京都の祇園社(現八坂神社)に参拝し、帰途で博多祇園山笠を見物。浜崎でも祇園祭を行うことを提案し、私費を投じて三台の山笠を奉納したことが起源といわれる。
前年(1752年)にははしかが流行しているので、その関係もあるかもしれない。
当初は博多の飾りをそのまま借りてきて飾ることから始めたらしい。
当初の開催日はお盆の日で、「火を被った家の『長男だけは』山笠に出てはいけない」という説は、初盆にお客さんを迎えるためということかららしい。

1763年
(宝暦13年)


浜崎、唐津藩領から天領になり、日田群代の支配下となる

博多祇園山笠模型
(大分県日田市豆田町)
浜崎の囃子は、竹紙を張る笛を使うことと、三味線が加わるという楽器構成が他の地区ではあまりみられない特徴だが、これは日田祇園の囃子と共通している。何らかの関係がある可能性は高そうだが、演奏する曲目や曲調は異なる。

 
囃子の成立
最初に、周辺の幾つかの村と共同で遠方に出かけ、囃子を収集したらしい。
浜崎の笛のように竹紙を張るものは「明笛」で、張らない「清笛」は幕末頃これにとってかわったらしいので、それ以前のことだろうと推測できる。
珍しい楽器構成のことを考えると、天領になっていた間のことという可能性も高いが、元々九州の広い地域で珍しくないものではあった。他地区では廃れたがたまたま浜崎と日田は残った可能性もある。

1817年
(文化14年)

浜崎が天領から対馬藩領になる。


以下のような話が残っている。真偽は不明。
ある年、浜崎から関西に商用で行った船が、帰りが遅れて間に合わず、祇園祭の当日にはまだ広島の港に停泊していた。
そのため水夫が船の上で囃子をして宴会をしていたところ、たまたまそれが広島の殿様の耳に入って気に入られ、招かれて囃子を披露したところ喜ばれ、ご馳走を振舞われ、褒美までいただいた。

1863年
(文久3年)


東組囃子用の鐘新調

明治時代初期

 
浜崎山笠様式の成立
浜崎の山笠の飾りは、人形・屋形や滝、野面といった飾りは博多の山笠と共通する部分が多い。しかし飾る前の地山(骨組みの山笠)の段階では大きく異なる構造をしている。
「槍出し」や「南瓜棚」を使った奥行きのある構造は浜崎で成立したもので、同じような構造を持った近隣の山笠は「浜崎系」という名前で分類されている。
この奥行きを使った飾り方は、華道の遠景や近景といった考え方が取り入れているそうである。

1903年
(明治36年)
 

4月中旬、東組台車新調

1923年
(大正12年)


電線の敷設により山笠を低くしなければならないということになったが、ならば浜崎に電線は要らないという話にまでなった。
しかし電線をひかないわけにもいかなかったので、山笠の期間中だけ電線を地中に埋め、それでも邪魔な所では電線除けの棒で上げるという方法で高いままの山笠を巡行した。

電線除け

1948年~1949年
(昭和23年~24年)
 
 
物資や若衆人手の不足により中断

昭和30年頃
 

道路の舗装により電線の埋設ができなくなり、山笠を低くせざるをえなくなった。その間、巡行路も変更となった。大きい山笠を製作する技術が失われないように、三区合同での置き山笠も作られた。
しかし、山笠が軽くなったことで走り山となって形態が変わり、これでは浜崎の山笠ではないということで問題になったため、地元の資金負担で電柱を高くし、再び高い山笠を曳くように戻される。

低い山笠の時代

1974年
(昭和44年)


5月下旬、東組台車新調

1982年
(昭和57年)

雨が続き山笠製作が間に合わなかったため、開催日が延期された。後に開催期日が変更されるきっかけになったとも言われる。 
東組鐘新調

1984年
(昭和59年)
 

濱組台車新調

1985年
(昭和60年)
 

開催期間が、7月14、15日から7月第4土日に変更される。休日を利用し参加しやすくするためと、梅雨と準備時期が重なっていて不都合だったことが理由。

昭和末~平成初
 
 
山笠の高さが15メートルになる

平成2年 浜区山笠
三区が四本柱を換えて山笠の高さを統一する際、電柱を上に継ぎ足して山笠が少し高くなった。
浜崎の山笠の高さが13メートルと表記されていることもあるが、これはこの頃より以前のことで、現在は15メートルとなっている。
なお、一番山笠が高い頃は18メートルあったともいわれるが、御幣を高々と掲げていたため飾りの部分については現在とさほど変わらないともいわれる。
また、この頃から諏訪神社の通りの道が拡幅され、巡行の面白みが減ったとも言われる。一方、東組は道が広がったおかげで地元に帰った後大まぎりができるようになり、楽しみが増えた。

1987年~1990年
(昭和62年
  ~平成2年)
 

飾りの部分に、小さい燈籠を付けるようになった。これは電気の無い頃の山笠の様式に戻したもの。

1995年
(平成7年)
 

台風接近により、二日目の巡行中止。山笠は二日目の朝解体されたが、結局台風は直撃しなかった。

2001年
(平成13年)
 
 
北九州博覧祭2001「九州・祭りの響演」に参加
平成13年 北九州博覧会
10月30日、三区の合同山笠で遠征。250周年を前にしてのPRとして企画された。
見世物ではないとか、浜崎の外に山笠を出したくない、そんなことのために仕事を休めないなど反対意見も多かった。会社などには県知事から参加者への配慮を求める文書を出してもらったり、作業従事者には通常出ることのない日当が支給されたりもした。
2002年
(平成14年)
唐津市の重要無形文化財に指定
5月10日指定。
250年祭
1753年を起源としての、250年祭。濱組の山笠がひきやま公園前から巡行することになり、巡行形態が変わった。また、式典が行われるようになる。
この頃から、夜間の制限が厳しくなり、巡行時間が短くなる。
この年子供山笠が初めて巡行される。
また、記念としてビデオが作成され、素材を流用した番組(小さな旅)がNHKで全国放送される。

2002年~2004年
(平成14年~16年)
 

濱組、東組、西組の台車が順に新調される。

2015年
(平成27年)
 

台風接近により、二日目の巡行中止。山笠は二日目の朝解体された。

2018年
(平成30年)
   
 
10月 「さが維新まつり」に参加。夜の大まぎりを行った。

2019年
(令和元年)
   
 
台風の直撃を受け、一日目の巡行は中止。二日目は予定通り巡行した。

2020年
(令和2年)
   
 
新型コロナの影響で中止になった。




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